懐の狭い社会

私の欠点に、あらためて気がついた。底抜けのお人好し、人の笑顔を見ているのが好きで、その為に、自分を犠牲にしすぎてしまう。とめどなく、それを繰り返してしまうから、気持ち悪がられてしまうのだろう。普通は、自分をも大切にするはずだが、生い立ちのせいかな?産まれた時から、誰かの役に立つことしか、与えられていなかったせい。振り返ると、最大の欠点、人を押しのけることが、出来ない。悪習慣?だから、私を、相手にした人は、際限なく、してほしいことを、要求してくる。それをわかりながら、答えてしまう。だから、私は、生きていくのが不器用。普通の人なら、おさえれるところが、私は、すっぽぬけ、だから、しっかりしていない、となってしまう。前の夫と親族にたいしても、又、養父母親族にしても、故人の義父母親族にしても、又、子供達にしても、他人にたいしても、私の親族にしても、結論は、私さえいなければ、幸せに暮らせれるのではないか?これが、根底に来てしまう。そして、自分なんて、どうでもいいやと形作りをしてしまう。ものすごい欠点、だからだろうな、誰からも、信頼を得ることが、出来ない。そんな考えでいたら、破滅することが、目に見えてわかるから。自分も他人も、共に幸せになる共生の根幹が、ずれているのは、この為。自分さえ、頑張っていれば、施しをし続ける事が、できるという横柄な気持ちが、こんな形を作り上げた。だからじゃないのかな、故人が、潰れてしまったのは、そして、子供達をも潰しかけてしまったのだろう。何のために、生きてきたんだろう?形を形に出来ない。与えられたことなら、こなせる受け身の姿勢、そして、それに酔いしれてしまう馬鹿、そんな姿勢で、今まで、生きてこれた。夫婦となった時に、夫が、際限なく物を要求。そして、私には、それをセーブしているつもりで、セーブ出来ていなかったんだろう。何でも、受けとめれると思いこんでいたから、結果的に、対する相手は、何でもしてくれるものだと思いこんでしまう。だから、お互いが、つぶれてしまう前に、整理整頓、摘しんてきしょをしながら、生きていなければ、ならなかった。それが、不完全だったから、このような形になった。私の欠点が、作ってきた賜物もある。つくづく、私は、アホな人だなと、辛い。あーあ!私の欠点を悪用しない人とは、対等に話もできるし付き合えるのだが、運悪く、悪用する人が、私のまわりには、多かった。それが、凄まじい勢いとなり、現在の状況が、生まれた。まるで、ハイエナに囲まれたようだった。人というのは、かくも変貌してしまうのかと驚いた。だが、よく考えてみると、人というのは、大きくなると成長するのではなく、体は、成長するものの、心根だけは、成長せずに、ただ、わがままの度合いが、強くなっているだけのような気がする。それが、自由という言葉になぞらえて、闊歩できてしまう社会。不毛だな。生まれもった性格は、どこまでいっても、治らない。のが結論、嘘つきは、嘘つきで、貫いて生きているし、周囲の人は、そんな嘘つきを、誰も注意することなく、やり過ごしている。ここに大いなる問題が、挟まっているように思えてならないのだが、頭のよい人達は、その人達を、又、食い物にしていく手はずを整えている。昔あったのだろうか?社会的なモラル、戦後の混乱で、生き延びる為には、様々な嘘が、許されてきたわけだろうから、年配の人には、嘘は、あってしかるべきもの何であろう、脈々と、その精神だけは、受け継がれてしまっている。美化は、されども、美しくない実態が、そこはかに漂ってしまう。そんな社会を、憂いてしまう。
自分の欠点は、逆に、作用もする。利用して、生きている人達を、選り分ける目が出来た。選り分けて、人を踏み台にしてまで、生きている、それを見極めてしまう尺度が持てた。結果、適材適所に到っていない。危機管理のなさを、憂いてしまう。
まだまだ、人が育ってはいない。特に地方が、抜け落ちているように感じてならない。JR北海道を見れば、一目瞭然なわけだが、今の時代は、そんな下地が、強すぎるきらいだ。もう一段、高みを目指すのに、まだまだ、時間を要するのだろう。抜け落ちてしまった30年!失われた20年、このまま、特定秘密保護法案が、可決されてしまうのは、不安である、この10年で、少しは、まともになっている事を願う!先行きが、不安。アメリカのFBIは、しっかり機能しているのかもしれないが、日本の場合、やや不安であり、国の考え方の違いが、大きなズレを、生じさせてしまうような気もする。大丈夫なのかな!?地方警察が、地域的な談合を維持してしまう流れの中で、成立していけることなのかは、JR北海道を彷彿しかねないようにも思えるのだが!
卵が先か、鶏が先かの議論に、なってしまいそうだが、形作って、魂が、入らなければ、何の意味もない。魂をしっかり機能させていく制度で、あってほしい!

バブル崩壊リーマンショック福島原発事故、そして消費税アップ。何を守って、いきたいのだろうか?主軸が、見えていないような気がする。ヒューマンエラーから、起きてしまってきた事故、やるせないものが、そこはかに漂う。そのなかで、社会は、何かを学んだのであろうか?うまく反映されていれば、いいのだが、何となく、失われた20年の上塗りをしているきらいが、ぬぐいされない。

いろんな事があり、いろんな人がいるが、まずしなければならないのは、自分の欠点を克服することで、自分の事を着実に歩み始めることだろう。そんなことからしか、私には、出来ない。

テレビをみながら、ふと疑問に感じたことがある。安売りに並ぶ行列、戦時中かと思ってしまう、不思議な光景、お年寄りが、多いなと思いきや、亀の餌にバナナがいるという70代の女性、豊かなのか、貧しいのか、わかりかねる不思議さが、あった。
日々の暮らし向きを、少しでも豊かにしたい、光景なんだが、朝早くから、それに費やすエネルギーが、よくわからなかった。この寒いのに、娯楽のいっかんなのかな、と不思議さを感じた。
私も子供が、小さく家計が、苦しい時には、1円でも安いものを、買いたいとは思ったが、精々30分前ぐらいに行っていた。今日の流れを見ていると、二時間は、並んでいるようだ。すごい情熱が、あるんだなと、そんなエネルギーが、有り余っている不思議さを感じた。玉子とバナナとティッシュらしいが、何故か、大変そうという思いがわかない。不思議な社会だ。少子高齢化なんだなと、さめてみてしまった。私が、安売りに並んでいたのは、30代、まさに子育て、真っ最中だったのだが、老人を相手に激戦を繰り広げなければならない時代なんだなと、わをかけた不思議さを感じた。何だか、大変な時代になってしまっている。
又、更に、ひ弱な国になっていくのかな。声をあげれる人が、いなくなる国。それが、世界に通用する国になるのだろうか?茶番だ。いつもの政治形式!公明党も、民主的な国民の声より、軍事的にも傾注してしまっているのかなー?
いったい、どんな国に、なってしまうのだろう?世論の声だけが、かき消されてしまう時代、弾圧社会が、出来てしまうのかな?どうして、弾圧をしたがるのだろう?権力者のおごりだろうか?野党もポーズだけであるのは、勝手に感じとっていた。だから、話ありきで、世論を騒がせてみたいポーズでしかなかったのだろうなとさめてみている。しらけ。話題性だけなんだろう。公務員の活性化すら、頓挫するのかな?これからの若い人達は、大変な時代に、なってしまうんだろうな。もう、さとっているのが目に見えるようだ。マザコン社会の末は、弾圧社会に進行してしまう?不思議な国だ。どだい権力者側の身を守る法律だろうから、反対する意思など、更々ない国会。そんなところが、みえかくれする審議に感じられた。少ない審議時間だった。何をおそれて性急に事を進めたんだろう。弱さの現れかもしれない。寂しい国になってしまった。バブル時代が、懐かしい、のびやかだったなー。子供達にも、そんな時代を経験させてあげたかった、福島原発事故で、叶わない社会になってしまったのかな。不幸が、蔓延してしまっていて、悲しい社会だ。窮屈な社会が出来た。あとは、上の器量、裁量次第となるわけだが、今の時代にどれだけ器量のある人がいるのか、やや疑問を感じてしまう。私は、懐が広すぎて、失敗(故人を受け止めすぎて、生きていきずらくさせたのかもしれない)してきた人間だろうから、参考にならないだろうけれど、支えすぎもよくなかったんだと感じている。だから、後始末しなければ、ならなくなってしまっている。ほっとけば、よかったのだが、マザコンなのに、義母が、パンクしてしまっていたから、子供達の為に、しっかりしなくちゃと働いた事が、不味かったのかも。自信をなくしたんだろう。4才も年下だったことと一人っ子で、同僚は大卒、故人は、民間あがりだったことも、みんなに溶け込めない、ひとつの要因だった。まー、しまりある社会のほうが、案外、生活しやすいのかもしれない。言われるままに生きていれば、よいだけなんだろうから。無駄に頭を使わなくて、よい時代になってきた。上からの指令を、待つのみの生活。ことなかれ主義の大衆の中においては、それが、平和なのかもしれない。なんともはや、力量を見守りたいものだ。

まー、そんな社会でも、スケートは、圧巻だったなー、精神力と技術の高さに、思わず涙が、込み上げてきた。まだ、18才なのに、すごい仕上がりだった。最近の10代は、めざましいものが、ある、体操もそうであったが、たのもしい時代。新世代に期待したいものだ。
故人は昔、野球のピッチャーをした経験から、練習に裏打ちされて自信がつくと言っていた。義父母は、プロ野球選手にさせたかったようだが、丁度、桑田の時代で、桑田を見て、才能の違いを感じたと言っていた。いっせいを風靡する人達は、やっぱり違う。義父母が、熱狂的な野球ファンだったらしいが、義父母とうまくいっていなかった故人は、大人になってから、野球をやりたがらなかった。そして、子供にも、させたがらなかった。そんなものなのかなと、不思議だった。運動神経は、よかったように思えたのだが、何故か、サッカーをやらせたがっていたなー、でも、私が、日本人のサッカーをあまり好きでなかったから、子供は、したがったのだが、あまりさせてやれなかった。まー子供も口でいうほど、やりたいわけでもなかったようで、ボールを買い与え、練習にもつきあい、練習方法も教えたのだが、ひとりでは、練習しようとしなくて、何度か、本当にサッカーが、好きなのかと聞いたことがあった。好きなら、上達しようと思うはずなんだが、全然、そんなそぶりがなくて、これは、ダメだなーと呆れてしまった。我が子は、どんな大人に、なるのだろう。不安だ。私の手元から、離れて俄然、色々なことに、やる気になった、私は、とことん、追いこんでいく教育をしていたから、離れてみて、楽になったのであろう。離れたときに成果が上がるようにという親心だったのだが、どうなることやら、私も養父母に追いつめられて生活をした結果、大人になって、そう苦しいことがなくなっていた、身についてしまった生き方が、出てしまうものだ。あまり、喜ばしいことではないが、ひとつだけ汚点があるとすれば、肉親を人質に売られたことだろう、悲しい人生だ。警察は、脅された私を加害者にしようとする。おかしな事をされてしまった。そんな冤罪が、まかり通る社会、はたして、どうなることやら!かくして、被害者と加害者が、逆転している。でも、社会は、そのまま進行してしまう。ヒューマンエラー、だから、ノイローゼになってしまう。子供達まで、被害者となっている。でも、加害者扱いにされている。と感じる。子供達への渡すもの、勉強道具すら、いつまでも、渡してくれない児相、勉強の妨害をされている。わけだが、又、子供達に頼まれたものも、時間ばかりかけて、速やかに渡してくれない。こんな嫌がらせしか、受けていない。公務員の嫌がらせとは、こんなものだ。こんなことでしか、差を、つけれないらしい。