見えない旋律

遂に、師走。人生、あまりにも、色々なことがありすぎた。のーてんきだから、何とか、やり過ごしてきたが、どうして、私の人生は、穏やかに進行しないのであろうか?激しすぎる人生で、正直、戸惑っている。私の気性とは、何処か、かけ離れている。内気で、引っ込み思案、もくもくと一人でする作業が、性にあっている。だから、レース編みや、パッチワーク等、細かなことが好きである。でも、そんな気性を、少し直そうかと、営業をしてみた。でも、マイペースだったなー。開き直って、マイペースさを、売りにしたほうがいいやと思いながら、営業をしていた。少し、背伸びをしすぎたようだ。やっぱり、事務職向き、事務職が、一番、性にあっていた。パートナーを、しっかり、吟味する余裕も持てなかった、私の人生。流れに任せて生きてきた。濁流に揉みくちゃに、いいだけされてきたような感じがある。それも、これも、生まれついての運命だったのだろう。無駄なことに、沢山、時間を費やしてきた。もしかしたら、生きていることは、無駄なことを、いかに楽しく過ごすか、だけなのかもしれない。最近、そんな気がしてならない。欲がある人が、若いなと、羨ましく、思えてしまうときがある。白髪も増えてきて、歳を重ね、一流どころを、経験してきて、それを、維持している人たちのバイタリティを考えると、強食とは、何であるのかが、何となく、見えてきた。私は、弱肉なんだろうな、そんな自分だけど、しょうがないや!人を押しのけて、何かをしたいとは思えない。それなら、負け組で、いいやと思ってしまう。どうせ、何かにうちこんでも、たかだか、知れている。そのぐらいの能力しかない。芸術的なセンスでも、卓越していれば、まだ、楽しく生きれるのかもしれないが、そんな能力は、なさそうだし。只の凡人でしかない。凡人が、何人いようと凡人でしかなくて、能力の乏しさをひしひしと感じてしまう。今更、努力する何者でもないだろうし、努力は、若い人に、譲るのが、望ましい。努力も若いときしか、出来ないことだろうからなー。若者から、努力をとったら、何も残らないだろう。ボケが進行しないように、若いときは、苦境にたたしているほうが、脳が、活性化するような気がする。何でも、マニュアルで、コントロールされている時代、それは、楽な生き方でもあるけど、つまらない平和な生き方でもある。目に見えない柵のある動物園と何が、違うというんだろうか?でも、世界人口が、ここまで、膨れ上がり、まだ、膨張し続けるのだから、マニュアルで統制されているのは、究極の美であるのかもしれないなーと感じてしまう、今日この頃。今ある数式は、どんなものなんだろうか?コンピューターが、一瞬で弾き出す答えと言うものを、みてみたいものだなーと統制されている社会を、斜め読みしてしまう。今、まさに体感しているのだろうけれど、昔あった、博士が愛した数式の時代を、超越している時代なんだろうな。平和と言う、旋律!桃源郷。かな!
何となく、薄っぺらい社会が、出来上がりつつあるような気がする。自然災害が、起きたときに、打ち勝って、行けるのだろうか?コンピューター世代!どうも、ひ弱に思えてならない。皆が、インドアを目指してしまう、焼きいもも焚き火で、出来ない時代!心配になってしまう。社会が、進みゆくのも楽しみだが、小さいうちから、文化がない生活を経験する時間を持たしておくことも、人作りには、大切な事に思える。ものが溢れている不幸な世代、いざというときの備えは、たぐいまれなる経験(実戦で、五感を養う)からの賜物でもあると思うんだけどなー。20代からは、育たない感覚だと思う。何でも、保育園、幼稚園でもないような気がする。それとも、もう教えれる親が、いなくなっていると言うことなのかな?
そう言えば、私は、幼稚園の時に、お泊まり会と言うのがあって、家を離れて、幼稚園児と先生で、たしか、電気を使わずに、過ごす、灯りがなくて、親がいないのが、こわかった思い出がある。寝つけなくて、おもらしをしたような気がする。自宅から、各自、布団を持ちより、親から、離れる訓練をさせられたわけだが、今となっては、よい経験だったような気がする。確か、炊き出しもやったな。今は、そんな経験も、実際の災害でも起きないとないんだろうな。
小さいうちから、親ばなれしたほうが、大人になってから、歪まないような気がする。

わが子は、幼稚園、保育園の時から、外国人の子供達とも、時を過ごした。やはり、日本人だけと違い、のびやかな子供達だった、そんな経験をして、パパを失ってから、母子家庭となり、習い事や機会があるごとに、外国人と一緒にお風呂に入ったり、共にキャンプを楽しんだり、食事やドライブ、釣りを楽しんだ。日本人より気が楽だった。私が、小学生の時には、当たり前のように、秋になると、枯れ葉を集めて、焼き芋を作った。当たり前の風景だと思っていたから、子供達にも、機会があれば、させてきた。バーベキューは、勿論、火おこし、飯ごうだきもしてきた。あとで知ったのだが、今は、家庭で、直火では、しては、いけないらしい。うるさい時代になってしまったようだ。変わったと言えば、自転車も乗りかたが、変わったようだ。昔は、歩行者と同じ扱いだったはずだが、車両としてみてしまうようだ。社会は、目まぐるしく、変わっていく、年老いてきた私には、優しい時代なのかもしれないが、若い人たちは、細かなことばかり言われて、生きずらい世の中に、なってしまっている。不憫に感じてしまう、先日、テレビを見ていたら、人が、コンピューターになる時代だと言う、悲しい話だ。感情、郷愁は、何処に置き去りにされていくのだろうか?人には、各々の感情があるから、人として、魅力があったと思うのだが、何から、何まで、操られてしまう社会、高校生の時に、電算を学んで、何れ、そんな時代が、やって来るとは、思っていたが、人は、そうは、ならずに克服していけるものなんではないだろうかと思っていたが、そうではないらしい。制御出来るものだと思っていたが、制御されるものに、なってしまうのかと思うと寂しい感じがする。人間味溢れるコンピューターは、出来ないものなんだろうか?目に見えない旋律と言う物を、大切にしてもらいたいものなんだが、データーを入力するのも人であるとき、ヒューマンエラーと言う、初歩的なミスが、生じてしまう。それを、チェックするのも人であるとき、それも、通りすぎてしまえば、恐ろしいことが、起きてしまう。それが、コンピューターと使いこなす人の恐ろしいところだ。コンピューターは、いれられた数値でしか、物を見ない。みれないと言うのが、正解なんだろう。片寄った数値など、簡単に弾き出すことも出来てしまう。ふるいわけは、そんな形で、ヒューマンエラーから起きてしまう。決してコンピューターが悪いわけではないのだが、思想の持ち主の判断なんだろう。特定秘密保護法案、韓国で同じ様なものが、2度、廃案になったと言うが、日本では、何故か、すんなり、通ってしまっていると不思議がられているようだ。私も、人の思考で、踏みとどまる物だと思っていたが、そうは、なっていないようで、不思議である。一抹の危機感を抱いている。私は、女で、民間人だから、口を挟む問題では、ないんだろう、黙って見守れば、良いのだが、愁いてしまう。折しも中国との空域争い、アメリカは、トーンダウンにも聞こえてしまうし、日米同盟の意味が、薄らいでいるようにも思える。やっぱり、他国なんだなと、一寸がっかりしてしまった。日本は、自立してやっていけるのかなー、ずっと、アメリカのひとつの州のイメージで過ごしてきた、40年あまりだったが、違ったのかな?素朴な疑問、又、税金が思いやり予算に消えていくのかなー?そうじゃなければ、いいのだが、働けど働けど、アメリカに上納して、国を、守ってもらわなければ、ならない。現実だよなー。 ひとつに、纏まりたがる国民性を考えたときに、ながいものにまかれているのが、安心だと思う国民性の中で、日本版、特定秘密保護法案は、アメリカの直轄を認めてしまう風潮にも、とらえられるような気がする。実質、そうかもしれないけど、戦争にいけと言われたら、断れない現象も起きかねやしないだろうか?そんなところが、心配でならない。同盟国と言えども、線引きをする上では、直轄にならない仕組みも、必要に思え、お蔵入りが、望ましく感じられてしまう。今までの日本の持ち味を考え、日本の平和だけを考えたら、望ましいことには、思えない。国際平和を考える意味でも、今までの、あり方でやっていけないものだろうか?日本独自の民主主義の根幹が、崩れるようなことがないように、戦後、戦争をせずに守り続けてきた人と国土、国民が、堪え忍んできた伝統を絶やさないために、守り続けていてもらいたいものだ。日本は、二大政党になっていないから、特定秘密保護法案のメリットが、感じられないような気がする。アメリカのように、議論が、白熱することもない、いつも形式上ばかりだから、一大政党と言っても、過言ではないだろう。あえてする意味が、感じられない。
そう思うのは、私だけかなー!聞こえは、いいし、かっこ良さそうにも、思えるけれど、一寸、違うのではないかなー!とにかく、心配!
議員さんは、他国と違い職業であるはずだから、存命のことばかり、考えてしまうような気がする。そういう意味では、公務員と変わらないか、よりハードのようにも思えてしまう。でもスタンスが、外国と違いすぎるように思えてならない。